『道具の思想』という本。『栄久庵 憲司』というヒト。

道具の思想 暮らしのモノ
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どうも、ミツヒコ(@monotolife)です。

今日は本と、その本を書いたヒトの紹介をしたいと思います。

『栄久庵 憲司』というヒトが道具に対する思想を綴った本が素晴らしかった。読書家の方やデザインの勉強をしている人なら僕以上によくご存知かもしれません。せっかくなので、お付き合いください。

今回は文章多めになります。

栄久庵 憲司に、本を通して出会う。

僕が初めてこのヒトに出会ったのは、図書館に企画展として展示してあった一冊の本でした。タイトルは『道具の思想』サブタイトルに「ものに心を、人に世界を」。昭和55年に書かれた、40年以上前の本でした。

『MONO┣ LIFE』で記事を書くほど、僕は気に入ったモノに深く愛着を持つ人間だと自負しています。そんな僕だからこそ、『道具の思想』というタイトルに惹かれて本を手に取りました。その中には、およそ40年前と今とで普遍にも感じる捉え方が書かれていました。

道具は、使い捨てではなく永く生活の一部になって欲しい。そう改めて感じるきっかけになりました。

栄久庵 憲司(Ekuan Kenji)というヒトについて

画像引用: NPO法人建築思考プラットホーム

日本を代表するインダストリアルデザイナー。この方については、NPO法人にわかりやすく記述があったので引用させてもらいます。記事もぜひ読んでみてください。

詳細:NPO法人建築思考プラットホーム

 日本のデザイン界に多大な功績を残したインダストリアルデザイナー、榮久庵憲司が他界したのは、2015年2月のことである。デザインという言葉すら認知されていなかった戦後の日本において、いち早くデザインの重要性を説き普及させた先駆者であり、その影響力は世界に及んだ。榮久庵の遺した名作は、キッコーマンの醤油卓上瓶をはじめ、ヤマハのオートバイ、JRの鉄道車両など、日本人の生活と都市空間の近代化を支えた足跡が、いたるところに残されている。また、デザインという職能を社会に切り開くための組織づくりや、人とデザインのあり方を深く掘り下げる研究にも邁進した。
(中略)
こうしたものづくりにかける情熱は、85年の生涯を終えるまで続いた。ひとりのデザイナーであるとともに、日本にデザインという職能・事業を成り立たせるためにゼロから市場を開拓した功労者であり、人とデザインのあり方を説く教育者・運動家でもある、まさにデザインに生涯を捧げた人物であった。

引用: NPO法人建築思考プラットホーム

詳細な点は後ろに記載するのですが、まずはこのヒトについて感じたところから。

間違いなく、僕が今まで出会った中で一番「道具とはなにか」を深く洞察している人でした。生き方とデザインが結び付いた人。道具とヒトの生き方を結び付けた人。40年以上前から、モノであふれる社会に対して起こる感性や心の問題を、すでに認識し改善策を考えていた人。

今まで僕はモノを購入する度に「勿体ないかも」「本当に必要なのか」と悩むことが多くありました。一方で、どうにも欲しくてたまらないモノもごく稀に見つかります。この違いは何だろう。その理由を、解説してもらえた気がしました。

僕が感じたのは、本当に欲しいと感じる道具には「便利さ」以上の魅力がある。それは生活空間に溶け込む「美しさ」だったり、手間暇かけて考え抜かれた「調和」のデザインだったりするようです。

思わず手元に置いておきたくなる陶芸品や、高級な腕時計。生活に必ずしも必要ではないモーターサイクル(バイク)についての言及もありました。面白かった。

2冊の本を読んで、特に興味深かった点を備忘録としてまとめています。

  1. 『道具の思想 ものに心を、人に世界を』
  2. 『道具論 the Discourses of Dogu』

何かの役に立つと嬉しいです。

1.『道具の思想 ものに心を、人に世界を』

本書の冒頭。ものについて、筆者が見る現状を記しています。

ーものへの畏怖ー

家庭に職場に、そして街頭にと溢れているモノは、われわれの欲望の証であり、そしてその欲望の実現に努めた努力の成果である。…(中略) 家庭の努力は物の獲得に向けられ、社会は物の、道具の生産を軸に転換した。結果は物質的充足と、世界に冠たる経済大国となったが、その背後に豊富な物が新たなる不幸も生み出した。

不幸に二つある。一つは目に見えぬ心の貧困であり、二つは交通事故や大気の汚染に代表される万人に自明な禍である。

序論 工業時代とものの在り方 P13

特に戦中・戦後を生き抜いた彼の目線がここには見えて、僕たちの想像を超える困窮を生き抜いたから得られる気付きだと思いました。工業一辺倒の旗を振った結果、世界屈指の経済大国となるも同時に大気汚染等の「万人に自明な禍」と、「心の貧困」という2つの不幸を生んだ。

ここで僕が目に留めたのは「心の貧困」という言葉でした。32年生きてきて、その間学校で学業を学び、社会に出ました。そして仕事をし、順風満帆に行くと思っていた人生は簡単に理想と現実の壁にぶち当たりました・29歳で仕事を辞め、改めてお金について考え、社会について考え、一人で旅をし、引き籠り、人に助けられて生きてきた今。「心」の教育がどれだけ不足していたかを、身をもって知りました。僕の気付かなかった、生き方に現れる心。

筆者は言います。

戦国の困窮時、われわれ日本人はモノの獲得に狂奔する一方で、物の性質、その強さ弱さを知り、使い方を学び、かつ、あらん限りの楽しみをモノから抽き出したものだった。食物に関し、夜に関し、そして日常生活の諸道具について然り。そうしなければ生きられなかったからである。

序論 工業時代とものの在り方 P13

彼らは、生きるために考えた。そして学んだ。この知識が、生活とモノを結び付けた。考えなければ、死が待っていることさえあった時代。僕の祖父母も戦争の経験者であり、モノを大切にする思想は間違いなく祖父母から受け継いだと感じています。それと同時に、モノを愛する思想も。

しかし、今の世界はモノであふれかえっているのもまた事実でした。僕の生活に照らして、筆者のこの言葉を元に顧みました。モノがあふれているからこそ、本質に目を向けなくても済む。貧困に喘ぐ必要もなく、衣食住は確保でき生命の危機に曝される機会が目に見えて減った世界。学業・就職・結婚・子育ての流れを右に倣って辿ることが「生き方」だと思っていました。お金を稼がないといけない。便利なモノを揃えてなければいけない。充実した生活を送らなければ。余暇を楽しまなければ。全てが誰かの提示した生き方の模倣でしかなかった。

そうすると、一つ大きな大きな罠が現れました。「合理性」を欠くと、不正解の未来が待っている。

モノと人は「便利さ」という細い糸で結ばれている。そしてその細い糸が切れた時、モノは修復されることもなく捨てられる。この最たる結果が汚染や危険などの2つ目の不幸をもたらしている。

2019年の現在に、僕が感じているモノの捉え方を的確に表していると感じました。例えば100円均一の製品たちであったり、ファストファッションの画一的な洋服であったり。便利で価格が安いことはとても良いことである反面、壊れる・敗れる・傷むとすぐに使い捨てることが自然と横行している気がしてならない。この思考がそのまま、社会を破壊する結果に繋がっている。また、モノを蔑ろにすること自体が心の貧困なのではないかと、僕は感じました。

愛着があるものは、長く使いたくなる。そこには価格以上の、何かがあるはず。このWebを運営するうえでも常に自身に問いながら記事を書いています。「この製品は5年後、10年後も一緒に居たいだろうか」

筆者が警笛を鳴らしているこの「便利さ」という細い糸。その思考を変えるには、科学技術や社会制度に頼るのではなく、近代人の「もの」観を変える必要があると、結論づいていました。

ものに心のあることを認知する必要がある。(中略)しかし、その存在は簡単に納得できるものではない。(中略)ものが蔵した光と秩序、その豊かさを開示するには、ものづくりに費した以上の努力が必要なのである。

序論 工業時代とものの在り方 P15

この一文が、僕が今後意識したいと感じたところです。好きなモノを伝えるには、そのモノを深く理解していく。そしてモノが作られた努力を認識して、理解していく。そこで初めてモノの価値の一端を伝えられる気がしました。

第一章 もの曼荼羅

次の一節に深い共感を得ました。

貪したるものづくりの精神からはけっして、メタフィジックな乗物は生まれない。
メタフィジック(Metaphysics):物理学(Physics)のMeta(上位)次元を対象にした学問。形而上学。私たちがモノの世界としてとらえている時空間の上位次元に関する学問。⇒意訳:手が届かないほど高尚なもの (中の人考察による意訳)

大宮人の牛車は、たしかにこれは当時の外国風、すなわち唐様をふんだんにとり入れた外車であった。しかし、現代の、外車まがいの車とはちがって、メタフィジックな乗物であった。今の車が、どんなに装飾をきらびやかにしようと、貪したるものづくりの精神からはけっして、メタフィジックな乗物は生まれない。
(中略)

便利は、どこまでいっても決して贅沢には至りえない。したがって便利からは文化は生まれない。

第一章 もの曼荼羅P52

美しいものがある。また絵画や、写真、音楽などの作品にも美しさはある。でも「表面上の美しさ」にとらわれている世界があまりに多く感じてしまうのが、この表現に現れていると感じた。本物の美しさとは、文化とはどこにあるのか。

僕の思考には『価値』=「モノの価格」=「評価数」のようなところがある。この価値観に今も振り回されることがあって困っています。より多くの人の共感を浴びたこと、より高い値段であること。あまりにもモノがあふれているからこそ、価格や評価に目を向けることがわかりやすい。

でも、僕はモノを心から美しいといえる人になりたい。そして、表現したいと思っている。そのためには、貪する心から整えていかなければならないと、この一文から戒めを貰いました。

2.『道具論 the Discourses of Dogu』

先の本から20年後の本。

道具にもまた、世界がある。

道具は人間のうつし身であり人間の鏡、といってよい。さらにいえば、道具セット、生活道具一式の立体的な構築そのものが、それに依って生活した人の「実体」なのではないか。

序論 ヒロシマの夕景 P16

この一文に感じた、道具は人を表すの真意。

人のイメージを作り上げる服や靴、眼鏡や帽子。また女性であれば化粧、男性の髭すらも道具の一部と言える。道具がその人を形作る。

人の一部になっていく道具、そこに審美眼がなければ美しい道具も模倣品の道具も同じ道具になってしまう。

そんな人間を、道具世界から、たくさんの道具の目が、人間世界を見つめている。嗤っている。いや、憤怒に燃えているのかもしれない。

序論 ヒロシマの夕景 P16

とは、怖いものだ。

正しい目を備えたい。美しいモノを美しいという。その裏に込められた作り手の声まで見える目を。

第三章 道具と欲望

欲望は本能とちがって、構築されるものである。文明をすすめ、文化を深める原動力である

第三章 道具と欲望 p50

欲望。この1年間、僕の欲望はどんどん萎んでいった。生きていくこと。嫌な世界から離れること。それが僕の世界だと思った。倹約。贅沢を控える。合理的なことを優先し、その中で感覚を磨く。

行きついたのが、原動力の欠如と無気力感。欲望の抑制により生きることは以前よりずっと容易になった気がしたけど、「文化を深める」ことは叶わなくなった。筆者は「欲望を喪失した民族は滅びる。」と明記している。僕もその一端を感じた。

欲望をどう喚起していくかが、道具論にとっても興味深いテーマになっている。文明をすすめ、文化を深める。僕は未来の技術・世界に興味がある。特に最先端技術にいつもワクワクさせられる。この心は、純粋に持ち続けよう。

第五章 身体と道具

『人馬一体、人機一体』

僕がバイクに乗りたい理由を、客観的に文字で読むことができた章。

モーターサイクルは重量のある金属の野獣。人機が一体となって走行すれば、大地とマシーンとの対応は騎手の身体にも伝わり、エンジンの鼓動は全身に振動として伝わる。この、疾走する中での人とマシーンの体感コミュニケーションは一緒のセックスである。(中略)

愛車、愛機と呼べる乗物には多かれ少なかれ、新しい官能の交歓が楽しまれている。なかでもモーターサイクルはまたがる姿勢から、官能の交歓が最も鮮烈におこなわれ、マニアの魅惑を招いてきた。この第三のセックスの領域は、20世紀のうちに開花させた、人と道具との関係の先端的な領域なのである。

第五章 身体と道具 p113

中々に強烈な単語によって表現されているが、僕には真っすぐ正確に伝わった気がした。何故僕がバイクに乗りたいと鮮烈に感じるのか。それは、バイクでしか感じられない感覚の領域があるから。それを「人と道具との関係の先端的な領域」と書くのは、なんとも面白い。

第八章 道具の創出

『夢みる人が、デザイナー』

この言葉が、とても心に残った。

これからデザインをしていこうとする人間は、もっと夢をもたなければならないのではないか。夢、夢想、幻想。若者よ、幻想を抱け。

第八章 道具の創出 p168

そう、ワクワクするモノ、使った先の未来が開けるモノ。今まで経験していない世界に連れていってくれるのが道具であり、その道具を作るにはその世界を夢見ないとできない。心が描く象。それが良い道具の定義なのかもしれない。

若者よ、幻想を抱け。

第九章 道具の倫理と論理

商品が、道具になるときとは。

 生活と道具の新しいシステムをくみ上げるのは、楽しいことであろう。そうしていくことによって商品を見分け、選び抜いて、商品を道具にしていくことができる。
 人間が道具を追求するとき、道具は人間を追求する。いま人間世界は道具世界にその質を見る目を問われているように思えてならない。すぐれた道具を選び取ることによって、道具によって生きる道を探せるかどうかを問われているのである。

第九章 道具の倫理と論理 p196

商品を道具にしていく。この言葉に、はっとした。お店に並んだままでは、それは商品であって道具ではない。使う領域に招き入れて、手を動かして初めて商品が道具になる。わかる気がする。

そのすぐれた道具を選び取ることが、道具によって生きる道を探すこと。自分の人生の一部を預ける場所。

道具に、深くかかわる

これだけの文章に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

この本と栄久庵憲司というヒトに出会えて、本当に良かったと思います。

僕が道具を選ぶ基準の中に、明確に「美しいこと」「機能が優れていること」「作り手の想いがあること」という指針が見つかりました。そして、一緒に未来を描けるかどうか。一緒に生活をするイメージができるかどうか。もし曖昧なイメージでしかないのであれば、辞めた方がいい。

もうすぐ僕はバイクを買います。その先にあるのは、僕がニヤニヤしながらバイクの良さを伝える記事であり、自分自身がバイクという乗物を楽しんでいる未来です。そして、バイクから見る美しさを生活の一部に当てはめていく。

僕の未来が、納得できるモノに囲まれている。これはもう明確な未来になったように感じました。その先が、どうなるのか。楽しみです。

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この記事がみなさんの、何かの参考になれば幸いです。

それでは、また。

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